前田慶次供養塔  堂森善光寺  見返り阿弥陀如来 

  前田慶次供養塔
前田慶次郎利貞殿 供養塔
前田慶次郎利貞殿 供養塔碑 文
前田慶次利貞は加賀藩主前田利家の甥、叔父利家に仕えて小田原攻めに参戦、 後己を知る天下唯一の武将として直江兼続を知りその主、上杉影勝公に生涯を託した。慶長五年、最上討伐には直江と共に出陣、大いに戦い殿軍をつとめ完全撤退を果たして戦史に名を留めた。後、この地堂森に居を賜り、邸を「無苦庵」とよび悠々自適この地を愛し郷民と親しみ、慶長十七年六月四日七十歳の生涯を閉じた。
慶次は天性豪放磊落奇行に富み、文武勿論広く諸芸道に通じ、無苦庵記・道中日記・亀岡文殊奉献和歌がある。
前田邸址 慶次清水 月見平に 今も慶次は生きている。
松心山 光照院 善光寺 中興第三十五世 酒井清滋
上杉家家職 山田武雄選並書


平成27年6月4日に開催された404回忌供養祭の様子についてはこちらをご覧ください。
平成23年6月4日に開催された400回忌供養祭の様子についてはこちらをご覧ください。
供養塔を望むライブカメラを設置しました。1分間隔で更新される画像をこちらからご覧ください。
平成22年9月25日に開催された兜むくり芋煮会の様子についてはこちらをご覧ください。
平成22年6月4日に開催された供養祭の様子についてはこちらをご覧ください。
なお、平成21年に開催された供養祭の様子についてもこちらに掲載しました。

供養塔に陣羽織三領を奉納して頂きました。
【奉納者御芳名】
倉橋大介様                     陣羽織1
株式会社 新保商店様  ┐
株式会社 栄光産業様  ├  陣羽織2、3  (3はリバーシブル)
佐藤酒店様                ┘

これを羽織って、前田慶次供養塔や阿弥陀堂の前で、ご参拝の記念撮影は如何でしょうか。
仁王門を入って左手の一夢庵にて受付しておりますので、お申し込みください。
この陣羽織の愛称を募集します。あなたも名付親になってみませんか。番号と愛称をメール、FAX等でお寄せください。
下の画像をクリックすると、拡大した写真が表示されます。

陣羽織1の前
陣羽織1前

陣羽織3ノ1の前
陣羽織3ノ1後
陣羽織1の後
陣羽織1後

陣羽織3ノ1の後
陣羽織3ノ1後
陣羽織2の後
陣羽織2後

陣羽織3ノ2の後
陣羽織3ノ2後
陣羽織2の前
陣羽織2前

陣羽織3ノ2の前
陣羽織3ノ2前

前田慶次が庵を結んだ堂森の図
米陽八景・堂森秋月の図
米陽八景・堂森秋月の図 (市立米沢図書館蔵)
元禄八年(1695)に描かれた善光寺・堂森山・月見平など...
前田慶次が亡くなってから八十三年後に描かれた図ですが、風流花鳥風月を愛した前田慶次を感じることの出来る風景画です。
天下御免・前田慶次
古跡をたずねて・・・意地の系譜M
天下御免のいたずら者
     前田利太
今井敏夫先生(歴史紀行家)著

前田利太は、前田利家の兄利久の養子(一説に滝川一益の子)で、通称を慶次、または慶次郎といい、忽々斎(こつこつさい)瓢戸斎(ひょっとさい)などと号した。
とにかく戦国末期から徳川初頭にかけて、天下に聞こえた有名な豪傑であった。彼はたんなる武功者というだけでなく、文学をたしなみ、あらゆる芸道にも通じた才人であった。「源氏物語」や「伊勢物語」を講じたり、戦国武士には珍しい「前田慶次道中日記」も著している。
しかし、彼の放縦不羈の性格はしばしば世を弄び、人を軽んずる傾向があった。叔父の利家がそのことを戒めると、利太は「たとえ万石の封土を得ようとも、我が意にかなわねば浮浪人と異ならず。それならば出奔しょう」と独り言をつぶやいた。が、このまま黙って去るのでは面白くない。
そこで一計を案じ、ある日、利家を御茶に招いた。
ことに寒い日であったので、利太はまず風呂に入れとすすめる。
利家は裸になって浴場に入ると利太がみずから湯加減をみて、「ちょうどよろしいようです」という。
利家はなんの疑いもなく風呂に入り驚いた。
湯舟の中は冷水であった。
利家は「あの馬鹿者に騙されたわい。すぐに彼奴を引き連れてこい」と怒ったが、利太はかねて裏門に用意しておいた松風という名馬に乗って逃げ去った。この話は天正十八年のことだという。
その頃、利太は六千石を与えられて越中河尾城を預かっていたが、そんなものにまったく執着しなかったようだ。
牢人(浪人の古称)となった利太はしばらく京に住んだが、やがて上杉景勝に仕えた。
俗説では「五千石で召し抱えられた」とあるが、実際のところは壱千石であった。
会津移封前後上杉家では、名のある牢人たちを召し抱えたが、それらは譜代の家臣と区別されて「組外衆」と呼ばれた。
前田利太・堀兵庫・車丹波の三人は壱千石の知行であったと上杉家の記録にある。

利太には、ずいぶん瓢逸な話が多い。

江戸で風呂に行った時である。利太は小刀をおびて浴場に入り、いきなり小刀を抜き放って脚や腕を削りはじめた。まわりの者はびっくりしたが、よく見ると刀身は垢取りの竹光だった。
関ヶ原合戦がおこると、利太は白絹の指物(背に指す旗)をつくって大ふへん者と書いた。謙信以来の武勇を誇っている上杉家の家臣たちは「当家に仕えてまだ日も浅いのに、大武辺者とは何たる増長慢であるか」と利太を責めた。すると利太は「汝らは、これを武辺者と読んだのか。わしは落ちぶれて常に貧乏だから、大不弁者と書いたのだ。」と言い返したのでみな呆れ返ってしまったという。
伝前田慶次所用の甲冑 慶長五年九月の関ヶ原合戦は東軍が勝利した。利太は直江兼続の手に属し、最上義光の長谷堂城を攻撃していた。そこへ景勝から西軍の敗報と、直ちに退却せよとの命令が届いた。
上杉家の撤退を聞き、最上・伊達の連合軍が追撃してきた。およそ合戦において、退却戦ほどむずかしいものはない。味方の損害は最小限におさえねばならず、勢いづいて猛追してくる敵を撃退するのは至難の業である。利太はこの殿軍(しんがりぐん)を率いて、追撃してくる最上義光の本陣に突入、これを散々に討ち破った。利太の奮戦で、上杉家はほとんど無傷で米沢に引き上げたという。
戦後、上杉家は百二十万石から三十万石に削封され、家臣たちもそれぞれ応分の減封を受けた。
利太には、諸大名から「七・八千石でも一万石でも召し抱えよう」と声が掛ったが、利太は、「今度の合戦において、諸大名の表裏の心には見下げ果てた。景勝の他にわが主君となすべき人なし」とすべて断り、米沢の東南に隠居地をもらい、風流を友として余生を送った。
晩年は「無苦庵」と称し、慶長十七年六月四日、七十歳で没したと伝えられる。
利太の供養碑は米沢市万世町堂森善光寺にある。

以上 歴史紀行家・今井敏夫先生の原文を引用させて頂きました。
前田慶次、堂森での逸話 その1
見返り阿弥陀如来像
 阿弥陀様の心とは・・・

慶次の従僕に吾助という従順で忠実な若者がいた。この若者、仏教の信心にこりすぎ、時ところかまわず、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」と念仏を唱える癖がある。
吾助については真面目な仕事ぶりといい文句はないのだが、この念仏ばかりはどうにも堪えることができない慶次である。頭からガミガミ叱りつけるのでは能がない、そこで慶次は一計を案じた。
「吾助」「吾助」と朝から晩まで、格別用もないのに呼び続けるのである。
「何かごようですか。」とかしこまる吾助に、「いや別に用はない。」と答え、吾助が立ち去ると直ぐにまた、「吾助」「吾助」と呼び続けたのである。
これには従順な吾助もほとほと困りはてた。それで或る時改まって、
「だんな様お願いがございます。吾助、吾助と、私の名をお呼びになるのは結構ですが、格別ご用のない時には、どうぞ私の名をお呼びになることおやめくださいますようお願いいたします。」と申し入れた。
すると慶次は、わしからも云うて聞かせることがある。
「あのな吾助、お前は仏様を信じて念仏を唱えているが、考えてみろ、四六時中、「南無阿弥陀仏」「南無阿弥陀仏」では、阿弥陀様も返事しきれないだろう。阿弥陀様にそうして御迷惑かけてもいいのか吾助、ようく考えてみろ。」とねんごろにさとすのである。
出典:「市立米沢図書館編」(前田慶次道中日記・資料編)


この吾助が信心していた阿弥陀様は、まさしくここ善光寺の見返り阿弥陀如来並びに善光寺三尊なのです。
蓮
 慶次の珍芸「兜むくり」

堂森善光寺の門前に人が群れていた。そこには高札が立っていて、
「何月何日、何刻、当寺境内にて兜をむくってお目にかけ申す。何人も縦覧勝手なり、前田慶次」
と書いてあった。 「前田様がおもしろいことをしてみせるんだって。」
「兜をむくるって、どんな事をするのか是非にもみたいもんだ。」
村人の口から出るこの話題は、近郷近在にまで広がって、もう大変な評判である。
いよいよその当日、善光寺境内は大変な人出である。みんなが今か今かと待っているというのに、肝腎な慶次その人がなかなか姿を見せない。どうしたんだろう、まさかおら達をだました訳ではあるまい。人々のイライラが最高潮に達したとき、やっと当の慶次が姿を見せた。そして集まった群衆に向かっていうには、
「みんな許してくれ、今日は拙者の兜むくりの珍芸をお目にかけようと張り切っておったのだが、昨夜より引続いて腹痛みのため力が入らないのじゃ。それで、せっかく集まってくれたみんなには気の毒じゃが、拙者の珍芸をここでお目にかける訳には参らん。どうか許してくれ、そのかわり、来る何月何日には必ず間違いなくお目にかけよう。」
こう云うと、さっさと帰ってしまった。
「腹痛じゃ仕方ないよなあ、こんどまた来よう。」
「残念残念、前田様早く治ってくれるといいね。」
気持の優しい村人たちである。お互いまた会うことを約束して家路についた。
次の約束の日、前回にも増して大勢の群衆が境内をうずめた。寺の玄関前には立派な台が据えられ、その上に「明珍」作りの見事な兜が飾られている。慶次は約束の刻限にちゃんと姿を現わし、どっしんと腰をおろしている。やがて約束の刻限、慶次の口上が始まる。
「ただ今から、この兜をむくってお目にかける。よく眼を見張って観ておるように。」
と如何にもうやうやしく述べた。
群衆はかたづを呑んで見ていると、慶次はずかずかと兜をのせた台に近づき、かの「明珍」の兜に手を掛けた。「えいっ。」するどいかけ声、みんな一瞬息をのんだ。慶次は兜を気合いと同時に後ろ向きにしたのである。「さぁどうだ、拙者の兜むくりの芸これにて終了。」慶次の声がとんだ。
群衆はあっけにとられた。
「なぁ〜んだ、これだけだったのか。」
「人を馬鹿にして、まんまとやられてしまったわい。」
慶次の仕組んだいたずらに群衆は怒るにも怒られず、笑いながら帰っていった。
出典:「市立米沢図書館編」(前田慶次道中日記・資料編)


慶次とここ万世近郊の郷民との親しい関係が窺える逸話です。
前田慶次、堂森での逸話 その3

 満つれば欠ける

堂森の旧家で太郎兵衛という肝煎がいた。太郎兵衛は、懇意な人達や親類などを招待しての新宅祝いに、慶次を一番の上客して招待した。主人太郎兵衛の挨拶があり、これから祝宴に移ろうとした時、つと座を立ち上がった慶次は、
「此の家の新宅祝いに、御家繁盛、無病息災の呪いをしてつかわす。」
斧といって勝手から一丁の斧を持ってくるように命じ、やがて上段の床柱の真ん中にバシッと打ち込んだ。一座の者はただあっけにとられるばかり、やがてどよめきがおこり非難の声が上がった。新宅したばかりの床柱に大きな傷跡をつけることは狂人でもめったにやるものではない。太郎兵衛は顔を真赤にして怒りだした。
慶次はおもむろに口を開いて話した。
「さて太郎兵衛よ、また一座の者よ、心を静めてわしの言う事を聴くがよい。太郎兵衛はこれまでせっせと貯めこんで家を新築した。これは誠に目出度いことじゃ。しかしここからが肝腎だ。すべて世の中は満つれば欠けることは道理である。これで沢山と安心すれば、そこが頂点でそこからは運がかたむく。思いがけない災難が後から後から降ってわいてくる。そしてアッという間に身代がつぶれ一家の滅亡となるのじゃ。太郎兵衛よ、よくこの道理をわきまえろ。決して有頂天になるな。この傷ついた床柱を朝晩眺めて、わしの言葉を思い出すがよい。それこそ無病息災、御家繁昌の基いである。」
太郎兵衛は怒りも解け尤も至極と肝に命じて忘れず精進を続け、その後末永く繁栄したという。
出典:「市立米沢図書館編」(前田慶次道中日記・資料編)