古跡をたずねて・・・意地の系譜M
天下御免のいたずら者
前田利太
今井敏夫先生(歴史紀行家)著
前田利太は、前田利家の兄利久の養子(一説に滝川一益の子)で、通称を慶次、または慶次郎といい、忽々斎(こつこつさい)瓢戸斎(ひょっとさい)などと号した。
とにかく戦国末期から徳川初頭にかけて、天下に聞こえた有名な豪傑であった。彼はたんなる武功者というだけでなく、文学をたしなみ、あらゆる芸道にも通じた才人であった。「源氏物語」や「伊勢物語」を講じたり、戦国武士には珍しい「前田慶次道中日記」も著している。
しかし、彼の放縦不羈の性格はしばしば世を弄び、人を軽んずる傾向があった。叔父の利家がそのことを戒めると、利太は「たとえ万石の封土を得ようとも、我が意にかなわねば浮浪人と異ならず。それならば出奔しょう」と独り言をつぶやいた。が、このまま黙って去るのでは面白くない。
そこで一計を案じ、ある日、利家を御茶に招いた。
ことに寒い日であったので、利太はまず風呂に入れとすすめる。
利家は裸になって浴場に入ると利太がみずから湯加減をみて、「ちょうどよろしいようです」という。
利家はなんの疑いもなく風呂に入り驚いた。
湯舟の中は冷水であった。
利家は「あの馬鹿者に騙されたわい。すぐに彼奴を引き連れてこい」と怒ったが、利太はかねて裏門に用意しておいた松風という名馬に乗って逃げ去った。この話は天正十八年のことだという。
その頃、利太は六千石を与えられて越中河尾城を預かっていたが、そんなものにまったく執着しなかったようだ。
牢人(浪人の古称)となった利太はしばらく京に住んだが、やがて上杉景勝に仕えた。
俗説では「五千石で召し抱えられた」とあるが、実際のところは壱千石であった。
会津移封前後上杉家では、名のある牢人たちを召し抱えたが、それらは譜代の家臣と区別されて「組外衆」と呼ばれた。
前田利太・堀兵庫・車丹波の三人は壱千石の知行であったと上杉家の記録にある。
利太には、ずいぶん瓢逸な話が多い。
江戸で風呂に行った時である。利太は小刀をおびて浴場に入り、いきなり小刀を抜き放って脚や腕を削りはじめた。まわりの者はびっくりしたが、よく見ると刀身は垢取りの竹光だった。
関ヶ原合戦がおこると、利太は白絹の指物(背に指す旗)をつくって
「大ふへん者」と書いた。謙信以来の武勇を誇っている上杉家の家臣たちは「当家に仕えてまだ日も浅いのに、大武辺者とは何たる増長慢であるか」と利太を責めた。すると利太は「汝らは、これを武辺者と読んだのか。わしは落ちぶれて常に貧乏だから、大不弁者と書いたのだ。」と言い返したのでみな呆れ返ってしまったという。

慶長五年九月の関ヶ原合戦は東軍が勝利した。利太は直江兼続の手に属し、最上義光の長谷堂城を攻撃していた。そこへ景勝から西軍の敗報と、直ちに退却せよとの命令が届いた。
上杉家の撤退を聞き、最上・伊達の連合軍が追撃してきた。およそ合戦において、退却戦ほどむずかしいものはない。味方の損害は最小限におさえねばならず、勢いづいて猛追してくる敵を撃退するのは至難の業である。利太はこの殿軍(しんがりぐん)を率いて、追撃してくる最上義光の本陣に突入、これを散々に討ち破った。利太の奮戦で、上杉家はほとんど無傷で米沢に引き上げたという。
戦後、上杉家は百二十万石から三十万石に削封され、家臣たちもそれぞれ応分の減封を受けた。
利太には、諸大名から「七・八千石でも一万石でも召し抱えよう」と声が掛ったが、利太は、「今度の合戦において、諸大名の表裏の心には見下げ果てた。景勝の他にわが主君となすべき人なし」とすべて断り、米沢の東南に隠居地をもらい、風流を友として余生を送った。
晩年は「無苦庵」と称し、慶長十七年六月四日、七十歳で没したと伝えられる。
利太の供養碑は米沢市万世町堂森善光寺にある。
以上 歴史紀行家・今井敏夫先生の原文を引用させて頂きました。